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雪はいつの間にか息を潜め、風は凪いで、音さえその役を終えたかのように消えていた。世界そのものが呼吸を止め、ただ一人の来訪者を待ち構えているようだった。
青白い霧がゆらり、ゆらりと漂う。地と空の境を融かし、深海と星空をひとつに溶かしたような冷たき光を孕んでいた。 瑞礼はひとつの夢の奥に迷い込んだかのように、そこに立っていた。――この世に、もう自分ひとりしかいない。
そんな感覚が胸を抉る。眼下に広がるは氷に閉ざされた湖。
音すら吸い込む湖底では、白く凍りついた膜の下に淡い紅の靄が揺らめいていた。まるで封じられた神の血脈が今まさに地の底で脈打っているかのように――。 死の中にあってなお、呼吸する何かの鼓動が氷の皮膜を曇らせていた。 湖底には幾枚もの婚礼衣装が沈んでいた。白無垢は百合のように、深紅は牡丹のように、
足元の氷の島にひとひらの裂け落ちた衣が流れ着いていた。白布は凍りつくことなく、まるで誰かのぬくもりをまだ宿しているかのように淡く光を吸い込んでいる。
瑞礼がその裂け目に落ちた一枚へと手を伸ばした瞬間――胸の奥に冷たき圧が走り、心臓が握り潰されるように脈打った。「……これらは、すべて……」
名もなき贄たちの――祈りの残響。この地に落とされ、花嫁として捧げられ、そして断たれた命の記憶。
風のないはずの空間にひとひらの声が混じった。
『やめて……押さないで……』
雪に滲む墨のように朧な声。 『どうか……哀れみを……』 怒りも恨みも悲しみも超え、ただ無音の叫びだけを残した亡霊の響き。 瑞礼は身を霧の裂け目から半透明の人影がひとつ、またひとつと現れる。声を持たぬ口が動き、涙を知らぬ瞳が瑞礼を射抜いていた。泣き声。嘆き。祈り。そのすべてが責めるように、哀願するように重なり合った。
やがて――
彼らの気配が、瑞礼の足元へと集まりはじめる。冷たい手が袖を掴んだ気がした。それは決して瑞礼を傷つけるものではない。けれど、その指先には生の世に属さぬ冷ややかな気配があった。
「や……やめろ……!」
瑞礼の声が震える。その刹那――
時が――凍りついた。
霧の揺れも、魂の囁きも、一斉に凍り止んだ。空気そのものが結界のように張り詰める。すべての気配がひとつの方向を向いた。――上。
瑞礼もまた、抗えず顔を上げていた。
遥か上方、湖に繋がる石階の最上段。そこにひとつの影が佇んでいた。 月なき天の下、白の衣を纏うその影はあまりに
――神という語さえ、生ぬるい。
その姿には孤独という名の静けさが纏われていた。世界を拒むでも、従うでもなく、ただ気高く、残酷に在る孤絶の美。淡き光がその
『……主上』
氷の底を渡るような低い調べで、無数の魂が祈るように囁いた。
瑞礼は息を止めた。この異界のすべての沈黙がその一言に収束したかのようだった。やがて――男がゆるやかに彼を見下ろす。
その瞳は月よりも冷たく、炎よりも深き金。氷河を灯す如く静かに輝き、見る者の心を凍らせ、そして灼いた。怒りも憐れみもそこにはなく、ただ言葉にできぬ懐古が滲んでいる。それは千年を超えてなお消えぬ孤独だった。
――懐かしい、と感じた。
記憶のどこにもないはずなのに、確かに、あの光を見たことがある。胸の奥のどこかが痛いほど懐かしさに軋んだ。
彼は微笑んではいない。けれど、唇の端と瞳の縁に、かすかな歪みが宿っていて――それはまるで、永遠の時を越えて待ち続けた者の顔のようだった。
低く澄んだ声が空間そのものを震わせる。その響きは瑞礼の魂の奥を直に揺さぶった。
「……やっと、来たな」
瑞礼の心臓が、氷の底でひとつ脈を打った。その声は甘く、冷たく、凶暴で――それでも、抗えぬほど懐かしかった。
国子とのやり取りが終わったあとも、太鼓の音は完全には消えなかった。間遠に鳴る低い響きが、雪に吸われながら谷底まで落ちてくる。それは急かす合図のようでもあり、葬列の歩みを刻む音のようにも聞こえた。 瑞礼はしばらく湖の縁に立ち尽くしていた。崖上の鎧の列が雪煙の向こうに揺れる。彼らは陣を解かず、そのままこちらを見下ろしていた。逃がすつもりなど毛頭ないのだと、その無言の圧が告げている。「……支度を整えろ」 隣で、緋宮が静かに言った。「日が高くなる前に発つ」 瑞礼は小さく頷き、洞の方へ歩き出した。足裏に洞の土の硬さが伝わる。この冷たい感触から離れることになると思うと、一歩ごとに足首が重く感じられた。 洞の中には、これまでの暮らしの名残がひっそりと散らばっている。植えた果樹、編みかけの縄、削りかけの木の器。火床の脇には、瑞礼が自分で束ねた薪がまだいくつか残っている。 それらは皆、ここで生きようとした時間の化石だった。 必要なものとそうでないものを、瑞礼はひとつずつ選り分けた。持ち出す荷など、たかが知れている。毛皮を二枚、乾いた糧と少量の果実。それだけを布に包む。 手を止めるたび、指先に灰や木のささくれが触れ、生活の匂いが鼻孔をかすめる。それはもう、戻らない日々の香りだった。 ふと、洞の裂け目の真下、もっとも光の届く一角が目に入った。果実の若木と、その根もとに寄り添う白い花。 かつて瑞白から「せめてこの花だけでも」と託され、瑞礼がこの地に埋めた花は、いまもそこに咲いている。冬の光を一身に受け、細い茎を立て、白い花弁を開いている。 植えた果実の木は葉を落とし、裸の枝だけになっている。それでも幹はしっかりと太り、白い花と肩を並べるように、静かにそこに立っていた。――この花がなければ、今ごろ、自分の心はどうなっていたか分からない。 この淵にやってきたあの日、膝をついて祈るように手を合わせたときの感触が、手のひらに甦る。瑞白の「わたしだと思ってお供させてください」という声が、遠い風のように耳の奥で揺れた。 瑞礼は吸い寄せられるように歩み寄
国子は深く頭を垂れ、それからこちらを見下ろした。「皇女は、まだあなた様のお力をお待ちです。今のまま、そう長くはもたせられません。 風と水を静めていただければ、北の里々を巻き込まずに、この騒ぎを抑えられるでしょう」 一呼吸おいて、穏やかな口調のまま言葉を重ねる。「ですが、もしお力をお借りできないとなれば……手立ては、他にもございます。人の世の理とは、時に神の慈悲よりも無残に、泥を啜るような真似も厭わぬものですから」 瑞礼の背筋を、見えない氷柱が撫で上げた。穏やかな声音の裏に、「里を楯に取る」という冷酷な刃が、鞘走る音もなく突きつけられている。 緋宮はゆっくりと息を吸った。その肩から雪がぱらぱらと落ちる。「……わかった」 その一言に、瑞礼の心臓が強く跳ねる。「ひと月だ。それを限りに、俺はお前たちの掲げる理に、力を貸してやろう」 国子の背後で、兵たちの間にほのかなざわめきが走る。国子自身はその気配を背に受けながらも、表情を崩さなかった。「ご決断、感謝いたします」「だが条件がある」 緋宮の声が、それを遮った。国子の瞳がわずかに細まる。「条件……ですか」 緋宮は、横に立つ瑞礼の肩へと視線を落とした。 瑞礼は息を呑む。凍えた空気が喉を刺した。「この男の身の安全を、必ず守れ」 その言葉は、雪よりも鋭く空を切った。「里にも、ここにも、二度と手を出すな。こやつを害せば、その時は人の理もろとも、この国を噛み砕く」 国子はしばし黙した。崖の上で風が翻り、彼の衣の裾を揺らす。「……なるほど」 やがて、小さく笑みを含んだ声が落ちてきた。「龍神が人の身を案じられるとは、思いもしませんでした」「返答になっていないぞ」 緋宮が低く言う。金紅の瞳が、遠い崖上の男を射抜いた。 国子はひとつ息を吐いた。「わかり
国子が告げた、月の満ちるころ。 洞の天蓋から覗く白光が淡く滲み、夜のうちに何度も途切れながら続いた太鼓の音は、いまは山肌を這うように低く鳴っていた。 白み始めた空の下で、瑞礼はほとんど眠れぬまま火床の灰をいじっていた。炭はすでに熾きも残さず、冷えた灰だけが指先にまとわりつく。 灰をつまんでは落とし、またすくう。そのたびに、幼いころの囲炉裏の赤が脳裏をかすめた。瑞白が火箸を握り、笑いながら炭を整えていた手つき。あの赤い火は、ここにはない。 外では風が早くなっている。崖の向こうから、金属の軋みと、馬の鼻息を含んだざわめきが、雪に吸われながら近づいてきた。 その音に顔を上げると、緋宮が先に立ち上がり、湖の方へと歩き出していた。その背を慌てて追いかける。銀の髪には細い雪が降り積もり、その肩は薄く白く縁取られている。それでも背筋はまっすぐに空へ向かっていた。 歩みのたびに、氷の下の水がかすかに鳴る。足元から立ちのぼる冷気が、脛を伝って胸へと這い上がってくるようだった。
翌日の空は重く、雪は細かな針のように降っていた。 緋宮は洞の外に立ち、湖の方角ではなく、遠い北の山脈を見つめていた。 瑞礼は火床のそばで薪を割りながら、何度も緋宮の背へ視線を送った。 太鼓の余韻がまだ耳の奥にこびりついている。中臣国子が去ってからも、瑞礼の胸はずっと冷えたままだった。「……緋宮様」 雪に吸われそうな声で呼びかける。「どうなさるおつもりなのですか」 緋宮は答えなかった。金紅の睫に積もった雪がかすかに揺れ、溶けては落ちる。 風が一度強く吹き、遠い谷底から、鈴のような音がまた響いた。瑞礼の胸に嫌なざわめきが走る。――罠だ。
数日ののちの朝、風は言葉を運んできた。雪は薄く、雲は低い。湖の遙か上方から、太鼓のようなかすかな音が降りてくる。 瑞礼が顔を上げると、崖縁に人影が並んでいた。黒と緋の衣、金の紐。馬の鼻息が白く散り、革の具足が雪を噛む音がする。 先頭の男が一歩進み出る。年は若い。けれど、足取りに迷いはない。「――御影山の主に申し上げる」 澄んだ声が、雪明りの下に伸びた。「中臣国子。御影に眠る龍神よ! 皇女の勅を奉じ、ここにまかり来た」 瑞礼の背後に緋宮の気配を感じ、振り返る。 緋宮はそのまま湖の縁に歩んだ。銀の髪に雪が降り積もっても、冷えを煩う気配はない。ただ、金紅の瞳が淡く光を宿し、上の人影を静かに見ていた。「……俺に何の用だ」
春はまだ遠く、風は氷を孕んでいた。薄い雪は途切れることなく落ちつづけ、それでも季節の理からすれば、そろそろ止んでいてよいころだった。 だが、今年の淵は違っていた。夜毎、風が鳴り、氷が裂け、人が落ちてくる。 最初はひと月にひとり。 けれど次第に間隔は縮まり、今では十日と空かぬうちに水の音がする。湖面の割れ目から浮かぶ身体は、瑞礼には見慣れぬ衣を纏っている者もいた。 蝦夷の民の刺繍でも、山の里の織でもない。絹の裾、金の紐、そして指には玉の輪。 瑞礼は震える指でその輪を外し、手のひらに載せた。薄曇りの光の下で、それは鈍く青を返していた。「……知らない匂いだ。蝦夷の者じゃない」 独りごとのように呟いた声が、白い息に溶けた。目を伏せて、そっとまぶたを閉じてやる。 ――だが、その手を制したのは、緋宮の声だった。「やめろ」







